アラサーライター吉原由梨の「ようやく大人 まだまだ女」別館

男女や家族を含む人間関係、家庭、仕事、メンタル、生き方について。

最初の企業で叩き込まれた基礎の基礎が、今でも役に立っている

私は新卒で入社した企業を一年で辞めた。

原因はパワハラでもモラハラでもなく、外資系IT関連企業のスピード感とスケール感と業務量に、新人女子社員が体力的・気力的・能力的に追いつけなくて倒れた。ただそれだけのこと。

なので、企業側に落ち度は無く、むしろそこで叩き込まれた「学生から社会人になるための意識変革」がその後の仕事の役に立ってくれている。

 

◆徹底したコスト意識

入社直後の研修で叩き込まれたのは「君たちはいまここに存在しているだけで会社にとってコストである」ということ。

研修を受けているだけで何も生み出さない社員に支払われる給料、企業が国に納める社会保険料、研修に必要な人件費、使用しているホールや会議室の光熱費、配布される資料の作成費、当然すべてコストである。

「一秒一秒、会社のコストを膨らませていることを十分に意識して、研修に励んでほしい。」

という初日の人事担当者の言葉をよく覚えている。

 

◆お金を「払う立場」から「もらう立場」へ

学生は、自分なり親なりが学費を支払って勉強している。が、就職すればお金をもらう立場だ。会社でやる作業は研修だろうがなんだろうが「お金をもらって」する作業である。悩むばかりで成果物を報告できない作業、長いばかりで結論の出ない会議などもってのほか。自分の行動が対価に値するものかを常にチェックする。

大学生に毛の生えた程度の新入社員は、意識の180度転換を求められる。

 

◆納期に間に合わなければ0点

仕事には納期がある。クライアントの満足度を高めるために仕事の質を高めたい、とどんなに熱心に作業に励んでも、納期に間に合わなければ何もしなかったのと変わらない。

学生の頃は、ちょっと締め切りをすぎたくらいなら熱意を示せばなんとかレポートを受理してもらえて、評価の対象にしてもらえたものだが、ビジネスシーンでそんなことが起きるのはまぁドラマの中くらいだろう。珍しいからドラマになるのだ。

「何が何でも納期は守れ。」

OJTで叩き込まれた。

 

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どれも超基本的なことだ。これを読んだ方の大半は、当たり前のことを何を今さら、と思うだろう。

 

でも、意外とわかっていない人にも遭遇する。

病気退職して、次の職場に就職したとき、おじさま方の意識のゆるさに度肝をぬかれた。守られない納期、着地点の設定なしに開始して結論の出ない無駄な会議に何度いらついたことか。

文化の違い、で片づけてしまえば良いだけかもしれないが、私は新卒でこの2番目の職場につとめていたら、一生上述の3点を明確に意識できなかったんじゃないかと思う。

そしてきっと、「お金をいただいてものを書く」ということも趣味の延長程度にとらえて、納期もぐだぐだな、ダメフリーライターの代表になっていたことだろう

 

だから、基礎の基礎を叩き込んでくれた最初の職場にはとても感謝している。

 

にもかかわらず、何もできない「コスト」のまま退職してしまいもはや回収の見込みのない不良債権状態になってしまって、大変申し訳ない。

しかもそんな不良債権人間に、退職後2年くらい経った頃だろうか。内輪の飲み会をやるから来ないかと声をかけてくれた。せっかくなのでと図々しいのを承知で行ってみると温かく迎えてもらえ、「今はあたらしい職場でなんとかやってます。」と近況報告をし、四方山話で大盛り上がりした。そして驚いたことに、解散後にマネージャーから「吉原さん、もう一度一緒にやりませんか?その気があれば、私は本気で迎えますよ。」というメールをいただいたのだ。

……なんと懐の広い。むだに高学歴なくせに何も貢献しなかった人間に、もう一度来い、とはなかなか言えない。

また同じことになるのが怖かったので丁重にお断りさせていただいたが、この恩は一生忘れないと思う。

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私がそこに社員として戻ることはもうないだろうが、いつか何かの形で恩返ししたい。その日を迎えるためにも、上述の3点をいつも頭の隅に置きながら今の仕事に励もう。

 

ということで、お仕事のご依頼まってます。(結局宣伝)

 

それでも東京で消耗したい

マンションの契約更新の時期が来た。

また高い更新料を払うと思うとため息しかでないが、住める家があるだけありがたいと思おう。と、自分に言い聞かせている。

これで2回目の更新なので、今のマンションに4年近く住んだ。
遡っていくと文京区に3年、世田谷区に1年半、文京区に3年半、杉並区に1年半。

もう東京に来て13年近い。

■田舎娘、東京へいく

地方の田舎娘だった思春期の私は、とにかく東京に行きたかった。
親が厳しくて、高校を卒業するまでは携帯電話禁止、男女交際禁止、女友達の家であっても外泊禁止。

そんな家庭だったので、
もうとにかく親元から離れたい!
そして娯楽がある華やかな場所に行きたい!
それなら東京だろう!

ということで、私の進路は
「とりあえず東京にある大学にいくこと」と中学3年生で固く決意した。The 不純。

その決意と努力の甲斐あってか、無事に志望大学に合格し、華の東京ライフがスタートした。

……はずだった。

蓋を開けてみると、東京は恐ろしいところだった。
まず人が多い。渋谷駅の井の頭線乗り場へ向かう通路。この人通りはなんだ!?スクランブル交差点は毎日が夏祭りなのか!?電車の恐ろしい混雑はなんなんだ!?
そしてみんな歩くのが速い。のんびり歩いてると押し流されそうになる。前に進めない。

どんなに都会に憧れても体内リズムが田舎仕様の私には、東京の人口密度とスピード感は息苦しく感じられ、

1週間でホームシックになった。

入学式に出るために上京してくれた母の顔をみたときどんなに嬉しかったことか……!
母が田舎へ帰る前夜、明日からまたこの東京の狭いワンルームに一人なんだと思うとこっそりベッドで泣いたくらいだ。

あんなに親元から離れたいー!と執念を燃やしていたのに、情けない話である。

もちろん、しばらくすれば恐い東京にも少しずつ慣れていき、友達も増えて、それなりにおしゃれをして、恋をして、東京で過ごす楽しさがちょっとずつ分かってきた。

それでも、長期休暇に入るとさっさと帰省して、地元でだら~っと力を抜いてひたすら英気を養わずにはいられなかった。一人あたりの空間の広さ!美味しい空気!ゆったりした時間の流れ!懐かしい友達!
まさに東京で消耗して、地元で充電して、また
東京で消耗して……そのサイクルの繰り返しだった。


■少しずつ変化する故郷への思い

詳しく書くと長くなりすぎるので省略するが、私は東京生活の最中にややこしい病気を患ったせいもあって、節目節目で「地元に帰って職を探そうか」「結婚は地元の人としようか」と家族のいる故郷に戻ることを検討してみた。病状はかなり深刻だったのだ。

でも結局帰らなかった。

理由はまぁいろいろあったが、
つまるところ、ホームであるはずの故郷にいるときの「ホーム感」が少しずつ減っていたこと、そして一度はホームシックにより美化されていた故郷の、良いところ悪いところを段々冷静に見られるようになったことが大きかった。

実家を出て何年もたつと、街の様子も、家の中の様子も変わる。昔の友達もそれぞれの人生を歩んでいて少しずつ価値観がずれてくる。(もちろん、ずれることなく一生つきあいたい友人もいる)
そして私自身も変わる。東京で広い世界を見てしまうと、田舎のしがらみが面倒くさく感じられる。ずっと地元にいる人の一部に見られる独特の視野の狭さ、井の中の蛙感、そういったものも冷静に見つめられるようになった。

ここは愛する故郷だけど、一生を暮らす場所ではないな、と私の中のなにかが判断したのだ。

ただし、あくまでもこれは私のケースに限った話だ。ずっと故郷で心豊かに幸せに暮らす人はたくさんいる。
私は凡庸な人間なので、一度離れないと故郷を客観的に見られない。
自意識過剰さゆえに、狭い地元で少しでも名が知れて「肩書き」がつくと、どこへ行ってもそれにふさわしい振る舞いをしなければと勝手に気負う。
人目を気にするので、古い世代から「当たり前」とされる女の人生のレールに乗っていないと、落伍者のように言われるのに耐えられない。

そんな私に田舎暮らしは向かない。
単なる向き、不向きの話。


■ホームになった東京

いまもって、私の体内リズムは田舎仕様だ。東京のスピード感についていくには心身のギアをアップしなければいけない。
人口密度の高さ、満員電車は狂気の沙汰。
バカ高い家賃もどうかと思う。
空気は汚いし、交通騒音もひどい。
そして個人主義で、無縁社会で、ともすれば砂漠とまでいわれる東京。

でも、いまやここが私のホームだ。
憧れの華やかな都会でもなく、恐い場所でもなく、ひたすら日常をつみあげる場所。

確実に何かを消耗している。
でも、ここで充電もできる。
そうなったのは、単純な慣れ、引っ越しを繰り返して物理的に居心地のいい空間を見つけたこと、そして13年かけて友人知人の輪という精神的な居場所を得たことによるんだろう。

何より私が魅力に感じるのは、群衆に紛れられることだ。
何者でもない自分になれる瞬間が、ここにはある。
レール通りの人生を歩めない人間には、このうえなくありがたい。


最近、興味深い話を聴けた。
東京生まれ、東京育ちのその方は、
「私がかつて育って好きだった東京はもうない。」と語っていた。「変化するのが東京の宿命のようなものだ」と。
変化を苦手とする私には少々都合の悪い証言だったけれど(笑)東京出身の方のそういう視点は新鮮だった。
果たして自分が変化についていけるかーーやってみないことには分からないが、変わらない確かなものも私は東京で得ていると信じて、根を張るべく日々を積み重ねようと思う。

槇原敬之さんの『遠く 遠く』はいつ聴いても心にしみいる。
 遠く遠く 離れた街で
 元気に暮らせているんだ
 大事なのは“変わってくこと” 
 “変わらずにいること”
 
 僕の夢をかなえる場所は 
 この街と決めたから    

『世界が先に驚いた』SHUNGA、私も結構驚いた。

春画展に行きたい行きたいと思い続けて3ヶ月、その願望がようやく実現した。

「誰と行くか問題」は、春画展に興味のありそうな友達が見つからず、結局

夫と行く 

という無難な選択肢に落ち着いた。
週末は混雑がひどいと聞いていたので、夫の休暇中の平日にいざ!

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展覧会場の永青文庫に到着し、順路どおり4階スペースに向かうと、

なんじゃこりゃ!?
人がひしめき合っている……!
陳列ガラス沿いに列を作り、その進まなさ加減たるや、牛歩またはディ⚫ニーのアトラクション待ち行列。行列最後尾は部屋からはみ出る。

ちなみにこれ、平日17時の光景である。
一応この17時というのも考えた末の時間で、会社員の方はまだ来られないし、専業主婦の方はご飯を作る時間だし、リタイア済みシニア層はそろそろ帰宅してご飯の時間だし、てかそもそも1日空いてたらわざわざ寒い夕方に来ないだろうし、という読みのもと狙っていったのに、
ゴッホのひまわりでも来ましたか?レベルに混んでいるではないか。
(ちなみに大学生の行動は読めなさすぎるので、未知数のまま予想放棄)

春画、恐るべし。

おとなしくその牛歩行列に加わって鑑賞開始。

序盤は、まだ完全に心通じあっていない男女の探りあいの様子が描かれている。ちゃぶ台の下で足がふれあっていたり、ちょっと着物のなかに手を入れてみたりさりげない感じ。

が、見ている側は牛歩なのにもかかわらずなかなか作品の展開が速く、気がつけばあっという間にどっぷり春画ゾーンスタート。


予想以上に赤裸々な描写である。
モザイクをかけたくなるような所をドーンとクローズアップ、色鮮やかに表現していて、「こ、これは……」と一瞬戸惑う。
保健体育の教科書より生々しい。昔クラスメイトに騙されてブックオフで立読みした東京大学物語より生々しい。

でも何作品も見ていくうちにだんだんと慣れてくるし、絵師や時代ごとの作風の違い、設定やストーリー性に目がいって、あまり気にならなくなった。
絵画としても色彩が美しいものがたくさん。私が特に気に入ったのは、鳥文斎栄之の四季競艷図の中の一作だ。緑色の簾がなんとも情緒がある。


ーーただ、最後までひっかかったこと。

……立派すぎる。
何がとは言わない。
紳士・淑女のみなさまにおかれましてはお察しいただきたい。
だって腕より太い。顔より長い。
いくら遠近法とか無い画法だからと言われても、なんぼなんでもそれは……。
私の記憶の中のサンプル数はそんなに多くもないけど、極端に少なくもない……はず。でもどれだけ脳内画像検索をかけてもidentifyしない。
(あぁこのブログを絶対に親が読みませんように)

これは男の意地なのか?見栄なのか?
いや違う、夢か!
現代の恋愛ゲームの女性キャラが全員巨乳であるように。

まぁ単に春画なのでそこを強調したかった、という意図かもしれないが、なかなかの盛り具合である。対して女性の体はそんな盛られてないのが不思議だ。

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春画というのはポルノなのか、アートなのか」という議論がなされているようだが、今回実際に見て、「どっちでもいい。というか、どちらの要素も兼ね備えている。」と感じた。
今みたいに写真や映像があるわけじゃないので、春画性教育ツールであり、面白おかしい娯楽読み物でもあり、性への欲求を刺激するものでもあり、芸術性を追求するものでもあった。

実際、「家庭の医学」的に臓器の説明がされている春画本、
享保の改革春画が禁止されてからも、貸本屋がこっそり庶民に貸し歩いたというもの、
大名が贈呈用(!)に絵師に描かせた豪華なもの、
記憶があやふやで申し訳ないのだが、何らかの団体が新年の行事で配布したものまであった。

様々な階層の人々が、様々な用途で春画を手にしていたのだ。


もうひとつ印象的だったこと。
展示してOKと判断された作品ばかりだから、かもしれないが、
「性」に対する後ろ暗いイメージをあまり感じさせられなかった。
どちらかというと肯定的で、どこか洒落がきいている。セリフ付きの作品なんかは思わず笑ってしまうようなものが多く、ちょっと意外だった。暴力的描写は一切無い(展示されていないだけでどこかに存在はするのだろうが。)
日本人はあまり性に開放的なイメージは無いけれど、秘め事でありつつもおおらかに肯定すべき事柄として古来から扱われていたんだな~と、これは新鮮な発見だった。


日本史の資料集にもこういうのいっぱい載せればいいのに。
……授業にならないか。

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物販コーナーでは全展示品が掲載された図録が販売されていて、夫は「これすごいよ!4000円の価値あるよ!」と気に入っていたが、うーん、いらん。
一時間近くかけて山ほど見たから、もう、お腹いっぱいだよ……。
ちなみに春画が印刷されたTシャツやらクリアファイルやらエコバッグも売られていて、こんなにもエコバッグという響きが似合わないエコバッグもないというくらい、違和感の塊の逸品だった。

エロバッグの方が実物に忠実だと思う。


総じて見ごたえたっぷりの展覧会だった。
日本美術が好きで性的描写が苦手でない方は、ぜひ足を運んでみてほしい。

「考えろ!考えるな!」そして冷静と情熱のバランス

ここ一か月ほど私の脳みそのほとんどを占めていた、ある「課題」があった。

ただでさえ要領が悪くてマルチタスクは苦手なのに、「ぼやぼやしてる暇はない」と普段の生活にその課題クリアのためのタスクの時間を押し込み、情熱を注ぎ、寝ても覚めてもそのことを考えていた。

 

そう、私は昔から何か「課題」を見つけると、根を詰め過ぎて、解決するまで24時間それが頭から離れない。夢にもみるし、ひどいときは心身ともにオーバーヒートして文字通り発熱する。(ウソみたいな本当の話)

 

大学入試も(毎晩命を狙われる夢を見た)

大学の期末試験も

就職活動も

物件探しも

仕事でトラブルが起こったときも

家庭の問題も

 

思考回路がうまく切り替えられないのだ。……社会人として致命的である。いや、人としてか。

 

こういう猪突猛進な気質は、短期決戦には強いのだが、長期戦にはめっぽう弱い。

特に、運やめぐりあわせにも左右されるような事柄になると、努力したからといって必ずしも結果に結びつくわけでもなく、消耗度合いが激しいため脳も体も心ももたない。

 

今回は一か月で、「あ、そろそろヤバいかも」に達してしまった。

(察知できるようになっただけ、少しは成長したのかもしれない)

テレビの音がうるさい、本屋で隣にいる人の咳ばらいが物凄く神経に触る、呼吸が浅い、体がほてる、などなど黄信号サインが全身から発されている。

 

全身が「この件については、休め」と私に訴えている。

 

ちょうどいいことに、明日からよーやくとれた夫の夏休み。

(夏どころか、もう秋から冬に入ろうとしているけど)

課題はクリアできていないけれど、原稿も前倒しで書いたし、一週間ほどはこの一か月の異常な根詰め状態から解放されようと思っている。

そして休み明けも、いまほどの過熱状態にはならず、長い目でやろうじゃないかと構えて淡々と取り組みたい。

 

これまたちょうどいいことに、いま少しずつ進めている勉強がある。

「勉強」と名のつくものがすべて嫌いな私が、珍しく飽きずにやっている。休み明けは、こちらの作業に軸足を移して、力を注ごうと思う。(気が変わらないうちに……)

案外そんなときのほうが、行き詰っていた「課題」をクリアするひょんなきっかけに出会えたりするものだ。

 

ひとは、悩みや考え事の渦中に居すぎると、「引き」で見ることが出来なくなって大局を見失う。少なくとも私はいま見失っていると思う。

一週間かけて落ち着きと客観性を取り戻し、大局を見ながら冷静にやろう。

仕切り直し!

 

 

タイトルの「考えろ!考えるな!」は、松岡修造氏の言葉である。

最初きいたときは「え、何それどっち!?!?!?」と思ったが、「自分が出来る範囲のことは考えつくしたら良い。だけど、明日の天気とか人とのめぐりあわせとか、そういう自分の力の及ばないことについては考えるな。思い悩むな。」という意味だそうだ。そう言われれば大いに納得である。

従来の諺で言えば「人事を尽くして天命をまつ。」に近いかもしれない。

 

思えばここのところの私は、考えて、考えていた。自分の出来ることも考えたし、自分ではどうしようもない範囲のことまで思い悩んでいた。

人事を尽くして天命を思い煩っていた。ある意味謙虚さに欠けている。天命をどうにかできるわけないじゃないか、身の程を知れという話だ。

 

自分の力の及ぶ範囲、及ばない範囲の線引きをしっかりとして、

情熱を注ぎ過ぎず、

一喜一憂せず、

大局を見て、

ゆっくりやっていこうと思う。

 

 

ちなみに本日11月6日は松岡修造さんのお誕生日らしい。どおりで温かいはずだ。

どうかこれからも日本列島に高気圧をもたらしていただきたい。

 

ハロウィンの日、芥川賞作家の両手は温かかった

先週末、世間がハロウィンで浮かれまくっているなか、ハロウィンのハの字もなさそうな街、神保町に行ってきた。

見事なまでに期待を裏切らない!なんとそこでは「古本祭り」が行われていて、仮装より古書に興味津々な人々でごった返している。あぁ、落ち着く……。

 

が、私のお目当ては古書でもハロウィンからの逃避でもない。

三省堂書店神保町本店で開催されるトークショー&サイン会である。「僕も芥川賞とったんです。」手書きポップを紀伊国屋書店に残した「又吉じゃない方の受賞者」羽田圭介さん。

 

「じゃない方」なんて世間で言われていても、わたしにとっては「羽田圭介である方の受賞者。」大ファンだ。

最近テレビでそのナイスキャラぶりが有名になりつつあるが、作品も素晴らしい。『スクラップ・アンド・ビルド』は自分より一つ年下の男性がこれを書くのか……としみじみ感じ入るほどに鋭く、かつどこかユーモラスな作品だ。

 

そんな羽田さんに会えるなんて!サイン会まであるなんて!

予定の確認もせずに申込み、当日はちょっと遅刻しそうになったのでタクシーを飛ばした。

ぎりぎりセーフで会場に滑り込み、普段こういう会場では「ちょっと後方の通路側」の席を狙う私がそのときばかりは「前方の両隣はさまれている席」を選んで待機。

 

間もなく登場されたご本人は、見事なまでにテレビの通り。本物だー!!! でも想像より少し長身?そしてちょっとお太りになった?いや、つかれてむくんでるのかな…。などと考えつつ、でもとにかく羽田さんの実物がこの場にいるのである。私から5メートルほどのところにいるのである。タクシー代なんて痛くもかゆくもないわ、あぁ来てよかった。

 

そこから、事前に会場のお客さんから羽田さんにききたいことを書いてもらったアンケートをもとに、司会の方が羽田さんに質問を投げかけていく形でトークショーは始まった。

ちなみに、某有名ドキュメンタリー番組のカメラが入っていた。「どっちかっていうと、ドキュメンタリー番組よりフ○イデーのカメラに2人で撮られたい」などと思いつつ、トークショーに耳を傾ける。

 

◇テレビ出演について

まずはやはり最近テレビへの露出が多いため、テレビ出演に関する質問が多かった。

それに対する羽田さんの回答に共通するのは「とにかく嘘をつきたくないんですよ」ということだった。トーク番組であっても、密着取材型の番組であっても、自分のキャラを作るために嘘をつくようなことはしたくない、と。なので、打ち合わせの段階でスタッフさんが落としどころありきで「これこれこういうエピソードとか、ありますよね?」と言ってきても「いや、ないです。」とあっさり切り捨てるらしい。

また、テレビで見られる自分が本来の自分であるかについては、「嘘は一切言ってないし見せてもいない。だけど、編集の段階である部分は使われ、ある部分は捨てられる。そうすると、必ずしもそれは本当の姿を映しているわけではなく、ある意味では作られた『嘘』になっている気もする。」と話していた。非常に率直で、真摯な回答である。

 

これはもっと後のタイミングで話していたことだが、「ポメラ」という機器を執筆に使用しているそうで、ビジネス雑誌などの取材でその話になると「あ!じゃあ先生はどこでも仕事ができるようにツールを持ち歩いていらっしゃるんですね!」とこれまた落としどころありきの質問が来るらしいのだが、実際には羽田さんは家でしか執筆はせず、持ち歩けることがウリのポメラを持ち歩くことは無いらしい。しかも使う理由は「目が疲れないから。」これまた嘘はつきたくないということで、「いえ、そういうことじゃないんです。」と断固否定するらしい。

 

そういうことが多発するので、取材はちょっと疲れるんですよねー……と語っていらした。

私はインタビューの経験は多くないが、ずしっと心に来る言葉だった。インタビュー対象者にこういう思いは絶対させちゃいけないな、と改めて取材する側の心構えを強く律した瞬間だ。

 

しかし一方でテレビに出演するというのは、創作のアイディアにつながるメリットもあるらしい。これまでは自分の実体験や周囲の世界の中からヒントを見つけてきたが、テレビというこれまでとは全く違う“俗っぽい”(マイナスのニュアンスは感じませんでした)世界との接し面白い体験が出来ることで、また違う経路からのアイディアが生まれてくるかも、という感覚はあるそうだ

 

総じて、テレビに出るのは「すごくうれしい」わけでもなく「すごく苦痛」というわけでもなく、メリットデメリットあるよね、と淡々と述べていた印象だ。

ドラマ化や映像化にもそこまで興味は無いし、テレビに出たからといって本がバカ売れするわけでもないし……と、テレビ出演の嵐に舞い上がっている感はまったくなかった。

 

あ、でも1点、「テレビ局で出る弁当がもの珍しくて2個食ったりしてたら、顔とか腹とかとんでもないことになっちゃってヤバいっすよ」

……それなりには、はしゃいでいるらしい。

むくんでるんじゃなくて、お太りになったようです。

 

 

◇ラジオの魅力について

テレビは全く見ないという羽田さん。執筆時は無音でないと書けないが、情報はラジオから得ているそう。「ラジオの魅力はなんですか?」という問いに対して、「テレビはどうしても大衆向けにキャッチ―で分かりやすいことを追求しないといけない。だから難しい話題になかなか切り込まない。それに対してラジオは、難しい話題にもあえて切り込んでいって、パーソナリティさんが一生懸命言葉を尽くしてリスナーに分かるよう届けよう、とする。そういう意味で大衆に迎合しないのは、ラジオの良さかと思う。」と答えていらした。

このテレビとラジオの違いについての見解はそう目新しいものではないけれど、羽田さんの執筆に対する姿勢や、メディアに対する考え方に親和的だなぁと思う。

 

 

◇『スクラップ・アンド・ビルド』について

説明するまでもない、このたびの芥川賞受賞作品。この作品は、「病気小説」という昔から延々と書かれているジャンルにおいて、これまでとは違う、まじめ過ぎず深刻過ぎない作品を書きたかったそうだ。読んだときそこはかとなく漂うユーモラスさは、その意図から来るのかなぁなんて思いながら聴いていた。

タイトルをカタカナにしたのも、漢字2文字、などで書くよりカタカナで長々と書いた方が“アホっぽい”感じが出るかなと思ったからだ、と語る。

なるほど、うーん、あほっぽいとは感じないが、漢字で書かれるよりはカジュアルな感じがする。

 

 

◇次回作について

いまは、長編の次回作に取り組んでいるらしい。当然未発表作品なので多くは語れませんが……と前置きしつつ、話してくださった。

スクラップ・アンド・ビルドはある意味、「天に唾吐く行為」(いつかは自分も老人になるのにその老人と若者が対立する)を描いていて、いうなれば縦の対立である。次回作はそうではなく、横の対立を描くものにする、と。

ご本人いわく、珍しく編集者さんといろいろ意見を戦わせながら書いている作品らしく、発表が楽しみである。

 

 

◇質問タイム

ラスト10分は、聴衆の中から質問を募る時間になった。

 

!!!

私のききたいことは、

「好みの女性はどんなタイプですか?」だ。

 

でも、皆さんすごくまじめな、小説に関する質問をしている……。

 

どうしよう、どうしよう、どうしよう。聞きたい、でも、羽田さんに白い目で見られたら立ち直れない。

 

と、うじうじ悩んでいるうちに10分は終了した。

 

……相変わらずチキンな私。

 

 

☆サイン会

著書にサインをもらえるので私も自宅にあるスクラップ・アンド・ビルドをいそいそと持参した。

前の座席の人から順番にサインをもらう列を作るのだが、なんと「撮影OKです!」とのスタッフの声。

なんですと!?

それ事前にいってよ、デジカメもってくるよ~。と思いつつ、

サインする羽田さんの姿をスマホのカメラにおさめる私。

そして驚いたことに、サインをした後一人一人とツーショット撮影可能というサービス旺盛っぷりで、全員がサイン→撮影→握手 をしていくものだから、進まない 笑

中には一人で6冊くらい持ってきてすべてにサインしてもらう強者もいて、進まない。

 

サインをする羽田さんもさぞお疲れだろうな……と思いながら順番をまっていた。

 

会場がこじんまりしていたので、羽田さんとサインしてもらっているお客さんの会話が私の位置まで聞こえてくるのだが、一番ナイスなお願いをしていた女性がいた。

事前に彼女は撮影NGだと書店スタッフがTVクルーに伝えていたので、顔が出せない事情があるのかな、くらいに思っていたら、

「あの、変なお願いなんですけど、好きな四ケタの数字を書いていただけませんか?」

「数字ですか?」

「はい、暗証番号にします!誕生日意外に思いつかなくて……。」

 

え。

 

会場全体に広がる爆笑。羽田さんも、「いいんですか!?これ責任重大じゃないですか!」と笑いながら四ケタひねり出していた。

すごくいいアイディア(笑) そりゃ撮影NGだわ!

 

 

そして待ちに待った私の番。

ごくごく普通に、「はじめまして。」とあいさつをして、本にサインをしてもらい、「あの、深イイ話みて感動しました。快楽と苦しみは常に同居しているっていう言葉、共感というか…感動しました。」と伝えるのがせいいっぱい。気の利いたトークなんて無理。どうでもいい人にはべらべら喋れるのに、どうでもよくない人にはかたまっちゃう病、発症。

それでも羽田さんの受け答えは優しくて、「ほんとうですか?いやー、全然たいしたことないですよ。」と話した後、写真をとって、しっかりと両手で握手しながら「ありがとうございました。」と目を見ていってくれる。その距離20㎝(推定)。

「頑張ってください。応援してます。」と必死にこたえながら、ドラマ「やまとなでしこ」で桜子さんに合コンで落とされる男の気持ちを理解した。これか。

 

その日の夜、サインと写真を眺めながら余韻に浸っていたことは言うまでもない。

 

 

総じて、テレビで見るように面白い方ではあるものの、それ以上に真摯で、哲学的で、サービス精神もあり、そしてただただ「いい小説を世に出したい」という思いの強い方だなということが伝わってきた。

やはり直接話を聴けるのは良い。話すテンポ、言葉の選び方、話の組み立て方、発している空気も編集なしで全部感じ取れる。

最高の時間だった。

 

次は、フ○イデーで。

 

 

後記:

実は、この記事をブログに載せるか迷った。私はトークショーの内容を録音したわけでもないし(録音禁止)、メモしたわけでもない。全て記憶に頼って書いている。ダンベルを買った話や最新の腹筋トレーニングを実演したことなど、省いた部分もある。たとえ商業目的でなくても、そういう「完全でない情報」が人の目にさらされるのは、羽田さんにとってあまり歓迎できないことかもしれない、と思ったからだ。

でも、一ファンがイベントに参加した思い出を記していることに気分を害すような人ではないだろう、と判断して載せることにした。ご本人の目に触れる可能性は低いが、もし関係者の方ご覧になったら、こういった逡巡があったことをご理解いただきたい。

 

センター試験まで100日をきって「そろそろしんどい」「こんな勉強何の役に立つんだ」と思っている受験生へ。

センター試験まで100日を切りました。

教室の黒板の隅に「センターまであと●●日!」なんてカウントダウンが書かれる頃です。

受験生の皆さん、勉強のはかどり具合はどうですか?

 

100日を切ったと言われると焦る。焦るけど、正直そろそろ受験勉強も疲れてきた。どうやって本番までモチベーション維持しよう?と憂鬱な気分になる人も多いのでは。

 

本来なら、

「いますぐブラウザを閉じて教科書を開け」

と言いたいところですが、

私も経験者。気持ちはわかります。

 

国立二次試験までのあと4か月、モチベーションを保つのに少しは役に立つかもしれないことを、自分の経験から紹介します。休憩がてら読んでみてください。

 

◇とにかく妄想する

妄想などせずとも淡々と勉強に邁進できるタイプの人は問題ないのですが、私はそうでもありませんでした。もう一刻も早く受験勉強なぞやめてしまいたかったです。

そんな怠惰な自分のモチベーションをなんとかキープするために、定期的に妄想していました。

志望校から合格通知が届いた瞬間の喜びを。そして、春から花の大都会東京で、毎日好きな格好をしてキャンパスライフを送る自分の姿を。

厳しい校則や親の監視から解放されて、友達や恋人と自由に大学生活を謳歌する自分の理想の姿を思い描きまくります。

すると、心の底から「そうなりたい!」「なんてハッピーなんだ!」という感情がわき出てきて、「そのためなら頑張るか。」となんとか机にむかえたんです。なんだかスピリチュアルっぽくてあやしいと思うかもしれませんが、案外効果あります。お試しを。

 

あとは、遊びたい衝動に駆られたら「こんな田舎で今遊ぶより、来年東京で遊ぶんだ」と自分に言い聞かせてましたね。ちょっとひねくれた考え方かもしれませんが、これも効きました。

 

 

はい、この時点で「あと4か月頑張れる~!!」と思えた人、ブラウザを閉じて勉強に戻ってください。

 

「え~、なんか今一つ。そんなんじゃ納得できない。」という人、ちょっと長くなりますが続きを読んでみてくださいね。

 

◇「受験勉強は何の役にも立たない」という考えを捨てる

よく世間で言われますね。「受験勉強なんてその後の人生の役に立たない。」「詰め込み暗記型の日本の入試制度は間違っている。」

これらは、あたっている部分もあれば、そうでない部分もあります。でも受験勉強をしている当事者からすれば、「それ役に立たないよ。」と言われることを毎日必死にやるってつらいですよね。

 

受験勉強は人生の役に立ちます。

いいですか、大切なことなので二度言います。

受験勉強は人生の役に立ちます。

 

気休めではありません。

どういうふうに役に立つのか、個人的見解を述べていきます。

 

☆自分の到達するべき地点と現状とのギャップを把握し、解決手段を見つける力が身につく

受験生にとっては、模試の成績が志望校の偏差値に達すること、センター試験で目標点数がとれること、が「自分の到達するべき地点」です。

そして、「現状」は、いまの自分の偏差値、点数です。

この2つの間に存在するギャップを埋めていく作業が、皆さんが毎日する勉強です。

つまり、「自分の目標と現状との間にどのくらいギャップがあり、そのギャップを埋めるにはどういう手段をとればいいのか」を日々考え、実践する。これが受験勉強です。

 

この作業は、大学に入っても、卒業して就職しても、一生続きます。そして社会に出ると、「到達すべき地点」と「現状」、そしてその間のギャップを把握すること自体が難しい課題にたくさん直面します。点数や偏差値などで分かりやすく数値化されていることは少ないからです。自分でそれらを見つけだし、解決する手段を見つけ出さなければいけません。

 

偏差値や点数でそれを把握できる受験勉強は、いわば「社会人生活のリハーサル」(簡易版)です。いまはそんな風に思えないかもしれませんが、きっちり考えて受験生生活を送れば、将来「あぁ、あのときやったことの応用版か。」と思えるシーンが出てきます。

 

 

☆やるべきことに優先順位をつける力が身につく

ギャップを把握しました、そしてそれを解消するための手段も考えました。あとは実践するのみです。

ただ、ここで受験生を苦しめるのが「やることが多すぎてどこからやっていいか分からない。」という問題。

科目はたくさんありますから、悩むのは仕方ないと思います。私も、英・数・国・生物・日本史・世界史・政治経済を勉強していて、生物と政治経済以外の5科目は二次試験の対策までしなければいけないという鬼のように広い「テスト範囲」に気が遠くなる毎日でした。

でも気が遠くなっていても勉強は進まず、とにかくやるしかないわけです。かたっぱしから片づけていくのもありですが、やっぱり「優先順位」をつけるのは大切です

志望校の受験においてキーとなる科目に重点を置くのか、それともいま自分の弱点となっている科目の克服を優先するのか、センター試験までは基礎の徹底に力を注ぐのか。こればかりは人によって千差万別ですので、自分の状況を冷静に判断して、優先順位をつけていってください。自分一人では難しい場合は、学校の先生でも塾の先生でも、自分のことをよく理解してくれていて信頼できる人に相談するのも、客観的な意見がもらえていいと思います。

 

そしてこの作業も、受験が終わってもずっと使うスキルです。大学の試験、(受ける人は)国家試験、就職活動、社会人になってからの仕事、すべてにおいて「優先順位をつける」ことは不可欠です。よほど特殊な仕事につかない限り、様々なことを並行してやる状況(いわゆるマルチタスク)に見舞われる日々がほとんどですから、自分で優先順位をつけて、スケジュールを組んで、それぞれの納期までに終わらせなければいけません。

 

ここでもまた、受験勉強は長い社会人人生のリハーサルの役目を果たします。

 

 

☆知識を使って「思考する」力が身につく

「受験勉強は暗記だけ」と思っている人、いませんか??というか、そうやって声高に主張する大人が多いですよね。

たしかに、受験勉強に暗記は不可欠です。それは仕方ありません。英語は単語や文法を覚えなければ文章を読めないし、歴史も覚えないと始まらないし、化学や物理だって基本の法則をおぼえないと始まりません。

ですが、「暗記だけ」ではないのです。その先に必ず、その知識を使って「思考する」段階があります。

 

理系科目はそれが分かりやすいです。数学、化学、物理は基本の法則や公式を覚えたら、それを使って具体的な問題をどんどん解いていきますし、生物は多少暗記事項が多めですが、それでも一定程度まで知識を蓄えたら、それをつかって思考する応用の段階に入ります。

 

英語もしかり。最初は、何年もかけて何千語も単語を覚え、構文を覚え、無味乾燥に感じるかもしれません。でもその段階をこえれば、その知識を使って文章を書き、長文を読み、要約したり論旨に合う接続詞を問われたりと、英語を操って「考える」段階にきます。

 

一番ピンとこないのが歴史でしょう。日本史も世界史も、ひたすら年表と教科書とにらめっこして人物名や出来事の名前を覚えていくので、「何の意味があるんだ…。」と思うのも

無理有りません。それに、一部難関私立大が出題するような、重箱の隅をつつくような知識問題に対応しようとすると、かなり細かく覚える必要があります…。(この点については、暗記偏重といわれるのも一理あるかなと感じます) 

ただ、これは教える先生の腕によるところも大きいのですが、歴史は覚えるだけでなく「理解する」科目です。日本史であれば「なぜその人はこういうことをしたのか。」「なぜこの時代の経済はこう変化したのか。」「この時代の政治と文化の関係はどうなっているのか。」

世界史であれば、「この国の動きが、同時代のあちらの国にこう影響した。」「この世紀は、世界全体としてこういう流れが起こっていた。」など。

生きていれば分かりますが、人間世界に、「突然わけもなく起こる出来事」はそうそうありません。いろんな要素が相互に作用しあって影響を及ぼしあいながら、日々歴史というものを作っていっています。教科書に書いてあることも、すべてその一部です。歴史とは、個々の出来事も大事ですが、その裏にある「流れ」や「因果関係」をひもといたり、考え出していく科目です。知識は、あくまでもその前提にすぎません。

 

批判を恐れずに言えば、「受験は暗記がすべてである」という人は、受験勉強をそこそこにはこなしたものの「思考する」段階までたどりつかなかった人かもしれません。

皆が皆、「思考する」段階にたどり着く必要もありません。ですが、暗記は決して受験勉強のすべてではなく、その先には別のフェーズが存在することを意識してください。できればそこまで行こうと思ってみてください。意識するだけでも、暗記作業のはかどり方が違います。

 

 

☆目標達成に向けてとにかく「努力する経験」を得られる

生まれてから、義務教育を終えて、高校に進学し、そのまま大学受験しようという学生さんにとっては、おそらく受験がこれまでで最大の挑戦ではないでしょうか

もちろん、中学を出て一度就職して、高卒認定試験を受けて大学受験する人や、高校を出て就職したのち大学を受験する人はすでに仕事で様々な経験を積んでいるでしょうし、部活にとてつもなく打ち込んできて大きな目標を達成した経験のある人など、いろいろなタイプがいるでしょうから一概には言えません。

ですが、若いうちに、「目標を掲げて年単位で努力して結果を受け入れる」という経験をしておくことは、とても貴重です。結果的に、合格する人もいれば不合格になる人もいます。合格して努力の達成感を味わえるにこしたことはありませんが、たとえ不合格であっても、必死に努力した事実は変わりませんし、落胆から持ち直す力(レジリエンス)を身に着けるチャンスです。

「努力しきった」という経験は宝です。というか、年単位で努力を継続することが一つのスキルです。ついつい楽したくなるのが人間ですからね。

 

このスキルも、必ず人生の役に立ちます。努力しなくても生きられる道は世の名におそらく存在しますが、努力しなければ見えない景色も間違いなくあるからです。

 

 

「受験勉強は人生の役に立ちます。」と言った根拠、納得していただけましたでしょうか?受験で得た知識そのものがお金を生み出すことはそうないかもしれません。徳川15代将軍の名前を全部いえたところで就職試験に有利になるとも思えません。でも、それらの勉強を通じて身につくことは、人生の役に立つのです。不安にならず、腐らず、目の前のことを淡々と進めてください。

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ここまで、長々と受験生へのメッセージを述べてきましたが、少しは役に立ちそうでしょうか?

4500字も読んでいただいたわけですから、役にたってほしい、と強く願っています。もし身近に受験生がいらして、タイトルにあるような愚痴をこぼしていたら、さりげなくここに書いてあることを話してあげてみてください。説経臭くならないように、あくまでもさりげなく。

 

朝晩の冷え込みもきつくなってきた今日この頃、インフルエンザも流行りますし、体調管理には気を付けてくださいね。予防接種もお忘れなく!

 

あの頃の私から見て、今の私はどうだろう?

今日は、再来月結婚する友達の式の余興ムービー撮りのために、高校のクラスメート8名で集合しました。

地元は遠く遠く離れた地方なので、8人も集まれるなんてうれしい!しかもそのうちの一人はこのために飛行機で上京したという協力っぷり(笑)

せっかくだから、撮影の前にランチしよう!とお昼に集合しました。

私は中高6年間ずーっと女子クラスだったので、当然今日も全員女

在学中から「うるさいクラス」で有名だったんですが、卒業して1○年経ってもあんまり変わりません(笑) けらけらけらけら、よく笑う。
でもやっぱり大半が結婚しましたし、あとはママになった人も半分いたので、彼女たちにはどこか頼もしさみたいなものが備わってるんですよね。もう二人育ててる子もいて、子育ての話を聞けば聞くほど、母ってすごい。

そのうちの一人が連れてきてくれた一歳にもならない息子くんが、もう可愛くて可愛くて、なんていうか存在が奇跡だな…と。

あとは、嫁姑問題や、バリバリ働いてる子の仕事の話、彼氏がついにできたー!という報告、ゲスい話(笑)…話題はつきません。


みんなで久々のランチをしながらひとしきりおしゃべりした後、カメラマンをしてくれる幹事さんたちと合流して、撮影場所へ。

ロケーションは、四ッ谷駅近くの公園!

すーごく空間が開けてて、気持ちいい。奥に迎賓館がみえる眺めも最高です。

晴れてよかった!


幹事さんたちからだいたいの設定を聞いて、それぞれの役割分担を考えます。
ただ「おめでとう!」とかいうだけのムービーではないので、考えることが多い。

セリフを考え、動きと立ち位置を確認し、
いざ撮影。

テイク2でなかなか良いものが撮れ、
無事、今日の目的を果たせました。

みんなしてカメラマンさんに
美白とか、スリム修正とか、よろしくお願いします!」と、無理なことを頼み込んで(カメラマン苦笑。いや失笑?)
「また12月にー!」と解散しました。


一番長く会ってなかった子とは多分5年ぶりの再会で、ほんと久しぶりだったんですが、不思議とするするっと昔に戻れるものです。
Facebookなんかで近況を知っている影響もあると思いますが、固い雰囲気になることもなく、すんなりいつものテンポに。
さすが毎日同じ教室にいただけのことはある。


「かつての同級生」とか
「地元の友達」との再会って、
いまの自分の生活からふっと一瞬離れるというか、自分自身のチャンネルがちょっと切り替わるスイッチな気がします。
分かりやすいのが方言。
いまではほとんど標準語で喋る私ですが、今日はいつのまにかバリバリの方言でしゃべっていました。
また、それぞれのコミュニティで、自分の立ち位置やキャラクターは微妙に異なります。それも、高校時代のそれに戻っていました。

もはや彼女たちと過ごした6年間より、東京に出てきてからの年月のほうが長くなりましたが、人の輪が持つエネルギーや、脳の奥深くに刻まれている記憶の力ってすごいなと実感させられます。


そしてそれは単に昔に戻れて懐かしいだけでなく、
その頃の自分と現在の自分との違い、どんな変化を遂げたのかを改めて振り返られて、
良い変化はそのままに、良くない変化は自戒する……そういう自省のきっかけになる気がします。

今日もいろいろ感じることができました。


そんなきっかけを与えてくれる同級生と、こうして東京で会えることに感謝です。


これから各自の生活がますます忙しい時期に入るので、しょっちゅう集まるのは無理でしょうが、ライフステージが違っても縁を途切れさせることなく、長くつながって行きたいなと改めて思います。
そして皆の子育てや仕事が一段落ついたころ、またちょくちょく集合して、女子高ノリでペラペラお喋りしたり、たまには大人の修学旅行でもしたり、そんな良い関係を続けたいですね。


ちなみにカメラマンをしてくれた幹事さんは大学の知り合いだったので、今日はなんだか時空が歪んだみたいな不思議な感覚を味わいました(笑)

 

みんな、また12月にー!
それまで、私は私の持ち場で頑張ります。
あの頃の私が「なかなかいんじゃない?」と言ってくれる私になれるように。